日本経済新聞で特集記事が連載されました。

東京の特養ホームに住んでみる -1-
認知症ケアの現場から
被災地から入居受け入れ
「区民限定」の壁に奮闘
東京都港区の地下鉄・広尾駅近く。有栖川宮記念公園とドイツ大使館の間の急な南部坂を登り切ると、 6階建ての高齢者施設「ありすの杜南麻布」は目の前だ。その一室にしばらく泊まり込み認知症ケアの現場を探ることにした。
要介護高齢者160人が暮らす南棟に3月22日、福島県からAさん(81)がやってきた。入居していた同県の特別養護老人ホーム(特養)が東日本大震災のため閉鎖されたからだ。緊急入居である。受け入れ側の強い働きかけで実現できた。奮闘したのは同施設の管理者、正垣幸一郎さん(38)だ。
職員の一ノ沢華子さん(21)から「実家の母が介護疲れで困っている」と相談を受けたのは5日前。断水のうえガソリンも入手難という状態で、特養からAさんを引き取って介護していたが、その声は弱々しかった。Aさんは、チューブで栄養剤を胃に送る胃瘻を抱え、脳梗塞の後遺症で車いすが必要。認知症もあり要介護度は4で重度に近い。
話を聞いた正垣さんはすぐに「引き取ろう」と決断した。まず福島県の特養と連絡を取る。次いで入居者が入院中で空いている部屋をその家族の了解を得て確保し、港区と東京都にも経緯を話す。入居者は港区民に限られ、選定は同区との協議事項だからだ。
港区は「厚生労働省からそうした件の通達が来ていない。人道的見地からやむを得ないとは思うが」とはっきりしない態度だった。「こんな時に、どうして」と思わず言葉を荒げた正垣さん。厚労省の「介護施設間の合意があれば受け入れていい」という通知は、この時点ではまだ区に届いていなかった。
飲料水とガソリンなどを積み込み、高速道路の通行許可も得て、正垣さんは福島へとハンドルを握った。施設の同意を得たが、見切り発車に近い。8時間後に帰京し、Aさんを抱きかかえ個室のベッドに横たえた。
被災地から東京の介護施設に来た要介護者は、東京都によればわずか30人ほど。
正垣さんが介護の世界に入ったきっかけは、予備校生時代に二人暮らしをしていた祖母の転倒骨折だった。バイクを乗り回して朝帰りすると祖母が入院していた。「助けられなかった」と反省し、大学受験から介護福祉士の養成校に進路を変えた。
認知症の祖母との同居は「親から独立でき、遊び盛りの僕にも、親にも都合がよかった」。それでも祖母のベッドとの間にポータブルトイレを挟んで就寝。深夜のトイレ介助は欠かさなかった。
Aさんは、到着した夜、発熱、嘔吐、床ずれ、腸閉塞などがあり重症だった。翌朝、医師の診察を受け、施設内の看護師が付きっきりで見守る。「生活の場が変わったことがストレスになり、腸の活動が止まったのでは」と看護師の土森美由紀さん(41)。
キッチン付きの家庭的な雰囲気や職員の丁寧な介護で、1週間後には笑顔でアンパンを口にするほどに回復した。
ありすの杜南麻布
国から取得した港区の土地に、2つの社会福祉法人が2010年4月に開設した複合施設。取材した南棟は、新生寿会(岡山県井原市)が特養、ケアハウス、グループホーム、デイサービスなどを運営。北棟は洛和福祉会(京都市)が特養、老人保健施設、通所リハビリなどを運営。合計入所定員336人。認知症ケアは南棟、身体ケアは北棟と機能を分けている。
東京の特養ホームに住んでみる -10-
認知症ケアの現場から
新人の会話 録画し検証
「共感」で入居者和らぐ
認知症ケアの「極意」を職員に聞いて回ると、「ビデオ検討会で理解が深まった」との答えが一様に返ってきた。検討会は、ありすの杜南麻布南棟を運営する新生寿会が新人職員研修に組み込んでいる。今年も1日から始まった。
まず、新人職員が居室で入居者と1対1で関わっている状態を撮影。その動画を見ながら指導者が講評する。
「自分の考えは脇に置いて。まず、お年寄りのつらい気持ちに共感しないと」
施設統括の原田まゆみさん(32)の強い言葉で新人職員たちの緊張感が一気に高まる。次いで、正垣幸一郎さん(38)が諭すように話す。
「この方は恥ずかしい思いをしたと言われたが、どんな場面だったのか、聞いてあげればよかった。誰にも言えなかったことを話してもらえるようになってほしい」
いずれも入居者とのコミュニケーションの取り方を指摘する。認知症ケアの出発点はお年寄りとの心の距離を縮めることにあるようだ。
画面は、職員の小林佑介さん(29)と向き合うパーキンソン病もあるA子さん(71)。5分間の画面の中でA子さんは、訛りが気になり、恥ずかしい思いもしたと話す。小林さんが「そうは思わないですよ。方言っていいですよね」と答えたが「自分の考えだけでなく、その背景などを考えねば」と指摘されたのだ。
翌日は、土森美由紀さん(41)も加わる。お年寄りに次々質問する職員の画面を見て、「過去の事実を問うより、それにまつわるご本人の感情や思いを話してもらう方が重要です」とピシャリ。
次の職員には「笑いで間を取る必要はない。お年寄りの不安を受け止められるようになるのが研修の目的です」。
新人たちも同期生の画面に物申す。「アイコンタクトができていない」「お年寄りのゆったりしたペースに合わせていない」などなかなか辛辣な発言が続く。そして、発言者自身も同じミスを犯す。頭では分かっているが体がまだついていかない。仲間からの言葉は身にこたえるようで深くうなずく人が目立つ。
本人たちもよく承知している。「お年寄りの言葉に共感する態度が足りなかった」「会話に気を取られ、相手のしぐさをよく見ていなかった」としっかり反省の弁も。向き合う位置や敬語の使い方などの意見が飛び交う。わずかな時間の画面なのに、観察は細かく議論の中身は濃い。
検討会の冒頭、正垣さんが「4つの基本的姿勢ができているかがポイント」と念を押した。4月の研修で掲げた①お年寄りに誠実に敬意を持って②自分のニーズや感情を脇に置く③あるがままを受け入れる④共感する ---である。新生寿会が導入している「バリデーション」というコミュニケーション法でうたわれていることだ。
正垣さんと土森さんは「バリデーション・ティーチャー」という「免許皆伝者」でもある。国内には8人しかいない。
認知症のお年寄りの症状は百人百様。気持ちを受け入れて信頼関係を結び、共感を築くことが大切なようだ。
バリデーション
主にアルツハイマー型認知症の高齢者を「正当に評価(バリュー)」しようというコミュニケーション法。米国人のナオミ・フェイルさん(79)が創案し、欧米などの多くの施設で導入。日本では2006年に公認日本バリデーション協会が設立され、研修を受けた実践者(バリデーション・ワーカー)が約400人いる。